J | o p l i n ------------------------------------------- | ||||
a n i s |
「伝説の女性ロックシンガー」は 27歳の若さでこの世を去った... 彼女の名は ジャニス・ジョプリン( 本名:Janis Ryn Joplin ) 1943年1月19日 テキサス州ポート・アーサー生まれ |
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本当は誰よりも愛されることを望んでいたんだ。 -------------------------------------------------- |
ジャニスの父・セスは石油所で働き、母・ドロシーは高校時代評判の歌姫だったそうだ。 ジョプリン家の長女として、ジャニスは1943年1月19日午前9時45分 セント・メリー病院でこの世に第一声をあげた。 ジャニスの成績は常に優秀で、彼女の周囲の人々は 「人を喜ばせることなら何でもする【指導力を持った】少女だった」と言う。 石油タンクで有名な、この保守的な町で過ごしたジャニスの幼少時代は何不自由なく、 誰の目にも幸せなものだった。けれど、ジャニスが思春期に入った頃のアメリカは 「黒人差別」が大きな社会問題となっていて、ジャニスは差別に反対したことで、いじめの対象となってしまった。 当時の彼女はニキビ面で太めだった為、「黒人大好き女」や「ブタ」「売春婦」などと呼ばれ、 男の子たちの恰好のえじきとなっていたが、それでも、ジャニスは「くたばっちまえ!」と言い返していた。 (ジャニスらしいね!) 「 地元の人は私がイカれてると思っていたわ。小さな町の典型よ。」 ジャニスは時々、不良の仲間たちと車で隣りの州であるルイジアナのバーに出掛けた。 そこでブルース に出逢ったのだった。「ブルースは自分に正直な感じがする」と彼女は 17歳で唄い始めた。(「唄ってみたら唄えた」なんて、 やはり当時から只者ではなかったんだね!) 大学で「最も醜い男」呼ばわれされたジャニスは、1963年にこの町から出て行く決意をした。 そして「自由」を求め、カリフォルニアへと向かった。当時のサンフランシスコは 音楽と麻薬がつき物の ビートニク文化 (・・・50年代アメリカで 物質文明に反対した若者世代) の中心地だった。 この夏、モンタレー・フォーク・フェスティバルが開かれ、 ジャニスに各社からの申し入れがあったにも関わらず、 機会をつかめなかった。ある夜には大勢のスピード常用者に襲われれたり、事故に遭ったりと不幸が続いた為、 1964年にニューヨークへと旅に出た。 ニューヨークから戻ったあと、ジャニスはいくつかの恋を経験したが、どれも長続きしなかった。 7ヵ月後にはスピード中毒になり、ジャニスの友人は「彼女の体重は39kgしかなく、 死人のような顔をしていた」と語っている。1965年、友人たちはバス代をカンパをして、ジャニスはテキサスに連れ戻された。 ジャニスはJPという男性と婚約していて、 実家ではベットカバーを縫ったりと結婚の準備を進めていた。にも関わらず、JPには妊娠中の奥さんがいて (つまり既婚者だった!ひどい!) ジャニスの元から逃げて行ってしまった。 ジャニスはテキサスで唄える場所を探し、再び唄い始めたのだった。とある新聞で絶賛を受けたことで 「テキサスに自分のいる場所はない」と1966年に再度、サンフランシスコへ向かった。 ジャニスが離れたここ何年かでサンフランシスコはロックのメッカへと大きく変貌していた。 (ヘイト初期、サンフランシスコのバンドは一塊で、 中心的存在はビッグ・ブラザー、グレートフル・デッド、 クイック・シルバー、メッセンジャー・サービス、ジェファーソン・エアプレーン、 カントリ・ジョー・アンド・ザ・フィッシュ程度だったバンド数が、 なんと1966年12月には1500もに膨れ上がっていたということに驚かされる!) ジャニスは ビッグ・ブラザー&ザ・ホールディングーカンパニーと いう元はアコースティックからエレキに好転したバンドのバック・ヴォーカルとして唄うこととなり、 次第に彼らはジャニスの心許せる仲間となっていった。ジャニスは両親への手紙を書き続けていて、 この時のことを「周囲に正直に生きていると思う」と綴った。…しかし、母が 彼女を理解することはなかった。 1967年に開催されたモンタレー・ポップ・フェスティバル の2日目にビッグ・ブラザー&ザ・ホールディングーカンパニーは出演。 グループの演奏にも勝る迫力で最初の音を出したジャニスは、この一夜にして大スターとなった。 (これには、あの「ニューズ・ウィーク」紙や 「タイムズ」紙も絶賛だったとか!観客の驚きの表情は、映画「JANIS」でよくわかる!) 同時にカウンターカルチャー(=ヒッピーカルチャー ・・・ベトナム戦争に反対する若者たちのフリーセックス、環境保護、東洋哲学、ドラッグといった文化。 シンボルは「Make Love Not War」を始めとするスローガンやパンタロン、 長髪、サイケデリック・グラフィック)の象徴となった。 そして初のメジャー契約を結ぶ。 さらに全米ツアーを敢行。この頃からジャニスはヘロインを始める。 1968年、2ndアルバム制作。 しかし演奏が進行するにつれメンバーとの衝突が頻繁になり、団結力が失われ始めた。 それは無慈悲なまでにテープ上に現れてしまうほど。アルバムは8月になって、ようやく発売。 その後まもなく、ジャニスとビッグ・ブラザーの訣別が発表された。 評論家たちがバンドを無視し、ジャニスばかりを褒め称えたことで ビッグ・ブラザーの音楽は不安が形となって、 新曲を作れなくなったことが原因とされる。しかし分裂は友好的なものだったという。 そんな中、アルバム「チープスリル」は100枚以上売り上げた。 ジャニスとビッグ・ブラザーのラスト公演はウェスト・コーストで終わる予定となっていた。 その秋、ジャニスは脱退。だが、それは結果として彼女の更なる孤独感を生むこととなってしまった。 同年12月、ジャニスのためのバックバンドコズミック・ブルースバンド 結成。 しかし、このバンドは神経をすり減らすような慌しさと、 あまりにも多くの人の口出しによって結成されたのだった。 アマチュアじみてはいたが即効性のあったビッグ・ブラザーとは対照的に、 プロとして形態が整ってはいたがバンド内の多数のミュージシャンは単なる金稼ぎとして 参加しただけであった。その無関心さと冷淡さが恐ろしいまでにバンドを沈滞させた。 ビッグ・ブラザー時代のジャニスの収入は、各コンサート平均4,500ドルの1/5を受け取るだけだったのが、 新しいバンドのメンバーには給料制で支払われ、大きなコンサートは頻繁にあるわけではなかったが 彼女のギャラは22,000〜30,000ドルと1969年の間に急激に跳ね上がった。 (ジャニスの消費に関しては、自由に使えた金額を比較すると基本的に質素であったそうだ。) 「 ステージでは2万5千人とSEXし、ひとり家に帰るようなものだ。」 本来の彼女は「自尊心」と「自己嫌悪」の両面を持ち合わせていて、 繊細な心の持ち主だったのにも関わらず、 「強い女」というイメージは一人歩きをしていく... 1969年8月15日からの3日間、ニューヨーク州ホワイト・レイクで開催された 全米各地から30万人の若者が集まった歴史的ロック・フェスティバル ウッドストックは、カウンターカルチャーの頂点と言える。 超満員の状態と荒れ模様の天候にも関わらず、音楽と平和の勝利をもたらした。 (実際にはフェスティバルが始まって間もなく塀が壊され、 前売りを買った人を除き、手違いによって「入場無料」となり、 大金を掴もうとしていた興行主の計画を打ち砕いたようだ。これは意外と知られてないですよね?) 2月初め、ジャニスは友人とブラジルのリオのカーニバルに旅立った。 この旅は素晴らしいものだったようだ。 この間、ジャニスはずっと麻薬には手を触れなかった。 そして、ここで時間つぶしと意味をもたない混乱の全てが終わりを告げても よかったほどの人物と出逢う。ジャニスは唄うことに関し 「疲れたし、恐ろしくなった」と頻繁に引退の話をしていそうだが、 彼とはお互いに愛し合っていたもののジャニスは決して満足することがなかった。 彼もあらゆる努力をしたが、最後には彼女のもとを去るしかなかった。 そして彼が去ると、ジャニスは以前にも増して狂気じみた気まぐれな行動にのめりこんでいったのだった。 1970年4月 ジャニスは新たにフル・ティルト・ブギ・バンド を結成。 ほんの数週間のリハーサルだったが、以前のバンドよりずっと統制が取れていて ジャニス自身も「本物のミュージシャン達が家族感情で結びついた、これまでには絶対になかった。 あたしのバンドよ!ようやく自分のバンドができたんだ!」と誇らしく話していたそうだ。 同年9月、アルバム「パール (・・・ジャニスの気に入っていた愛称で、この名の由来は2つあるそうだ。その内の1つは 『真珠』。そしてホンキートンクな女はそれにふさわしい名前を持つべきだろうというのが、もう1つの由来と思われる。)」 制作のためロスへ。このレコーディングでジャニスは訛りを気にしている。スタッフに 「君のルーツだ」と言われるが、返した言葉は「やめてよ...」と、その声は小さく侘しかった。 MC「:テキサスには帰ってくるのですか?」 ジャニス:「いいえ。でも、8月には帰るわ。 高校10年目の同窓会に行くの。」 客、爆笑・・・ MC:「昔の同級生に何と言うのですか?」 ジャニス:「笑ってやるわ!(笑)」 MC:「友達はいなかったのですか?」 ジャニス:「みんな私を笑い者にしたわ。クラスでも町でも... だから帰るの。 」 客、爆笑・・・ (この時のジャニスは顔では笑っていたけれど、 時々遠い目をしている。 観ていて非常に痛々しい。) ジャニスはその夜、ポート・アーサーに電話している。彼女は絶対に両親との連絡を絶たなかったそうで、 むしろ人生最後の数ヶ月間には、これまで以上に頻繁に電話していた。そして、この時ジャニスは母に 「ママ、あたしはとても疲れているの・・・・ただ疲れたの」と話したそうである。 8月12日 ハーヴァード・スタジアムには約4万人の聴衆が集まった。 この日のジャニスは異様に輝き、堂々としていた。 そしてこれが彼女にとって、生涯最後のステージとなるのだった…。 翌日、テキサスへ 8月15日 同窓会出席のために故郷に帰ったジャニスは、復讐するかのように町を練り歩いた。この日、いたたまれなくなった 両親は町を離れてしまう。同窓会にはマスコミが押し寄せ、ジャニスにとっては話したくもないようなこともインタビューされた。 母はジャニスのコメントに怒りを覚え、彼女にこう言った。 「あんたなんか生まなきゃ良かった 」...そしてジャニスは故郷と決別する。 10月2日のレコーディングは順調。深夜11:00に作業を終え、ジャニスはメンバーの1人と バー“バーニーズ・ビーナリー”へ。酔っ払った彼女は 12:30ごろ1人でチェルシーホテル (ある本では、LANDMARK HOTEL 105号室とある。)の部屋へ戻った。 そして、その4日午前1時40分(のちに判断される)ドアから1、2フィート歩いた先、 まるで投げ捨てられた操り人形のように遺体 となって発見された。死因は麻薬過剰摂取とされている。 (けれどジャニスは「死のう」としていた訳ではない筈。 というのも彼女は前日に市役所に結婚許可証についてと思われる問合わせをし、 ドレスを作ってくれていた裁縫師にも電話を掛けた記録が残っていたらしいのである。) 8月終わり頃から初秋と最期まで、ジャニスの精神状態は完全によい方へ向き、 ジャニスがヘロインに手を出したのはレコーディングと環境の圧力の結果であった。 彼女の友人の話では「ジャニスはヘロインの危険を知っていたし、 ただ酒を飲みすぎて『眠る』、それだけの為に鎮静剤として使ったのではないのか」と、 そして「ジャニスは麻薬を絶つつもりだった」ということだ。 悪夢は重なることに、ヤクの売人は異例なまでに高純度のヘロインをジャニスに渡していた。 ジャニスの死は「ジミ・ヘンドリックス」「ジム・モリソン(THE DOORS)」の死と共にロックの神話となった。 10月7日 葬儀はロスのウェスト・ヴィレッジ斎場で行われた。 遺言により遺体は火葬され、灰はカリフォルニアのマリン・カウンティ沿岸に飛行機で撒布された。 死から6週間後にアルバム「パール」発売。1位を獲得し、14週チャートに残った。 単なる偶然で何の意味もなかったというが、ジャニスは遺書 を残していた。10月1日に署名し、 遺産の1/2は両親、1/4は妹のローラ、1/4は弟のマイケルへ。さらに「盛大なパーティーを開いて欲しい」と 2,500ドル予算を組んでいた。チケットの裏には 「飲み物はパールのおごりよ...」と記してあったそうだ。 アルバム「パール」に唄だけが間に合わなかった曲がある。その曲のタイトルとは、 「生きながらブルースに葬られ」という曲である。 そう、ジャニスそのものだったのだ... |
『ジャニス発見ッ!!』
有名なジャニスは映画や楽曲、本の中でも、その名が度々登場する。
そこで、ひよっこが見つけたものを書き出してみよう!! 映画♣ドアーズ…プロデューサーが酒におぼれる主人公モリソンの姿を見て、 「オレは似た人物を知ってる。・・・ジャニスだ」的な発言をしていた。ここからは実際の話、ドアーズの伝記によると、 ジャニスはモリソンを見たら「なぐりかかってやる」だかとか言っていたらしい。仲違いしてたのかな? 映画♣バンディッツ【ドイツ作品】…やはりあるオジさんが 「『自由とは失うことが何もないこと』そう唄ってジャニスは若死にした」と言っていたようだ。 映画♣オースティンパワーズ…たぶん1番目の作品。 オースティンは60年代が青春時代かなにかで、現代に頭を切り替える為に音楽も近代のものを聴くことにした。 楽曲♣ゆずのJANIS…タイトルから、おもいっきりジャニスだ。 本当はジャニスに似てる女の子の唄だけど、野外ライブの映像でもジャニスの顔と解説が映し出されていたよ!! 楽曲♣ワンズのCLOUDY SKY…「教えてブルースシンガー、ジャニス」と唄っている!! 「ジャニス」と名指しだから、 きっと私の言うジャニスのことだと思う。 楽曲♣林檎ちゃんのシドと白昼夢… これはイアンの方なので、違います!! (じゃぁ、載せんなって?) 楽曲♣林檎ちゃんのカバー、白い小鳩… カバーアルバム「唄い手冥利」収録のこの曲は、MOVE OVERのカバーにも聴こえる!プロデューサーの意向かな? 小説♣群ようこさんの都立桃耳高校… 「似たデザインのブラウスを二十七歳で死んだジャニス・ジョプリンが着ていて、 そういう服が似合うマスミちゃんがうらやましかった」と主人公のシゲミちゃんのココロの声 |
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ジャニスの言葉の中のひとつを挙げてみよう。 「 自分を解放しなさい。そうすれば自分が考えていたよりずっと大きな自分になれる。 」 ここからは私的な意見だけど、誰もがみんな社会の中で生きてる。 その社会とは人様々で、会社だったり、家庭だったり、 学校だったり、友達だったりする。その各々が属した社会の中で、心から伸び伸びと過ごしている人はどのくらいいるのだろう? 何処かで自我を押し殺して、言いたいことも言えずにイライラしたり、泣きたくなることだってある。 いつしかそれが当たり前のものとなってしまった。 そんな時、この「解放」という2文字を心の中で唱えると、 窮屈な想いをして生きている自分が情けなくなる。でもそれ以上に「もっと自分は自由であっていいんだ!」と羽が生えた様な気持ちになる。 生きてることがどんなに意味のあることかってわかる。 私とジャニスとの出逢いは、私が高校3年だった頃にさかのぼる。 私は当時ロックバンドで歌っていて、 沢山のRockに囲まれて毎日を過ごしていた。その中で飛び入り気に入っていた曲が幾つかあって、そのうちの1曲が ジャニスの「Move Over」だった... こんな風に唄えたらどんなにカッコいいかと思って、真似てみた事も あったが、とてもではないけれど真似ることなど出来なかった。 しかし、その頃の私はジャニスの他の曲を受け入れる 器がまだ備わっていなかった。正直に言えば、イマイチ難しい感じがしていた。 だから自分の中で何か大切なもののような気がしていたものの、必然的に遠回りをしたのかもしれない。 そして大学に入学し、2年目に「洋楽の歴史を勉強する科目」を受講した。そこで私はまたジャニスと向き合うきっかけができた。 ところが、ジャニスが出てくるはずの日の授業は用事があって欠席してしまったのだったが、この欠席にまた意味があった。 というのも、ジャニスのことが気になって気になってたまらなくなったからだ。そして、今に至るのであります。 |